お墓アドバイザーブログ

2021.04.06

その他

白鳥城址

富山市の吉作にありまして、実家の近くという事で昔から慣れ親しんだ場所でございます。

 

 

下記、その歴史です。

wikiからです。。

本丸跡からは環壕を巡らした弥生時代の高地性集落跡が見つかっており、古くから軍事上の要地であったことが判る。文献上は、寿永2年(1183年)に源義仲の武将・今井四郎兼平が陣を張ったとするのが最初の記録で、その後、越中守護代神保長職が上杉謙信の越中攻めに備えて本格的に築城し、富山城の詰城として利用されたと思われる。その後、神保氏の降伏により城は上杉方の手に移ったが、元亀3年(1572年)には西から攻め寄せる一揆勢により落城した。白鳥城は、東側が急斜面となっており東からの攻撃には強かったが、西側はなだらかな斜面となっており、西からの攻撃には脆弱な城であった。

上杉謙信の死後、越中が織田方の支配下にはいると、佐々成政が富山城に入り白鳥城も引き続きその支城として使われたと思われるが、天正18年(1585年)に羽柴秀吉が成政を攻めた際(富山の役)、富山城を見下ろす位置にある白鳥城に豊臣軍の陣が置かれた。秀吉の本陣が置かれたとする伝承があるが、実際に秀吉の本陣が置かれたのは加越国境の倶利伽羅であり、白鳥城に陣を設けたのは先遣隊の大将であった織田信雄とみられている。

成政降伏後は婦負郡以西を加増された前田利家が有し、まだ越中の一部を領していた成政に備えるため城将を置いた[4]。現存する縄張りはこの頃に完成したものとされている。

文禄4年(1595年)に新川郡を加増された前田利長は、白鳥城とその支城に城将を置く[5]。同年、新川郡の諸城も上杉家の越中衆より引き渡される。利長は守山城を本拠とし、佐々・上杉の越中撤退により白鳥城は慶長年間に廃城となった。

1980年(昭和55年)から1983年(昭和58年)にかけて試掘調査が行われ、本曲輪で礎石建物のほか鍛冶遺構などが検出された。

 

 

上記を見ると、歴史は古いようでその割にはあまり知られていない様な気がします。

近くには展望台があり、そこからの景色がこちらでございます。

 

 

先日、ジョギングの際に寄り道してきました。

 

桜は見ごろを過ぎましたが、散策やお散歩には良い所だと思います。アップダウンもありますので慣れていないと一人は厳しいと思います。お誘いあわせのうえ行ってみてください。

 

 

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